大阪天満宮について
大阪天満宮の歴史
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。
以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。
平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。
その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。
これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。
以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。
大将軍社
菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。
天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。
拂暁祭
その後摂社として祀られるようになりましたが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、 神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。大将軍社のいわれや歴史、信仰はここでは控えさせていただきます。
建物について
ご本殿
現在の本殿は、天保14年(1843年)に再建されました。
大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保8年(1837年)の大火では、全焼致しました。
その約6年後に、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、現在のご本殿が再建されました。
本殿内も他のお社に見られるようなきらびやかさは見られませんが、先の大東亜戦争にも焼けずに残ったのは、氏子の方々が焼ける自分の家を横目に見ながら「天神さんを焼いたらあかん」と守って下さったおかげです。
梅花殿
1025年大祭(大正15年)の記念建造物で、昭和2年に境内東端中央寄りに南面して建てられました。
平安朝寝殿造りの賓殿で、伊勢神宮の古材を拝領しました。
平成11年7月16日に、国の登録文化財に指定されております。
襖絵
上段の間 | 松島の図・・・津端道彦筆 広沢の池の図・・・庭山耕園筆 鷹狩りの図・・・上田耕冲筆 小朝拜の図・・・原在泉 若菜摘みの頭・・・原在泉 |
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中段の間 | 雪中松の図・・・上田耕冲筆 吉野山の図・・・佐久間鉄園筆 紅白梅の図・・・深田直城筆 曲水園の図・・・菅楯彦筆 駒迎えの図・・・磯長長秋筆 須磨の図・・・伊東紅雲筆 龍田山の図・・・津端道彦筆 富士の図・・・津端道彦筆 |
下段の間 | 田上川の千鳥の図・・・若林探溟筆 嵐山の図・・・三宅呉暁筆 種下しの図・・・三宅呉暁筆 虫撰の図・・・津端道彦筆 七夕の図・・・上田耕輔筆 夕顔の図・・・巨勢小石筆 |
*梅花殿の襖絵は、宝物庫。写しが、天満宮会館〔寿の間〕にあります。
板戸 | 雛菊・秋草・・・津端道彦筆 芭蕉の図・・・益頭俊南筆 |
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衝立 | 舞楽・連山・駒引・秋草・・・津端道彦筆 |
参集殿
明治43年10月20日、天満宮保勝会によって建設献納され、本殿東側に建っています。平成11年7月16日に、国の登録文化財に指定されております。
人物紹介
昭和2年(1927年)1025年祭を機に、大阪の画壇のたる方々が揮毫された由緒ある襖絵です。
津端道彦 | (1868年~1938年)
明治元年新潟県中魚郡に生まれ上京して南宗画・住吉派・土佐派を学び歴史人物画を得意としました。 文展や日本美術協会で受賞を重ね、しばしば御前揮毫(きごう)宮内省御用画をつとめました。 |
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上田耕冲・耕輔 | 上田耕輔は、大阪四条流の上田耕冲の長男として万延元年(1860年)に生まれる。 父耕冲から継承した自然写生を重視し四条流本来の「平面で写実的な」作風が見られる一方で 濃厚な色彩で彩られた鮮やで鮮明な作品もあります。 耕輔は、展覧会などを機軸に活動するのではなく、特定の有力な後援者との関係で活躍しました。 耕輔は住友家の第十五代当主吉左衛門との関係が深かったようです。 また、庭山耕園は、耕輔の兄弟弟子になります。 |
大岡春卜 | 延宝8年(1680年~1763年) 大阪生まれ。初め狩野派に入門しましたが、後定まった師をもたず、中国画を研究し一家をなしました。 朝廷より(法橋・法眼)の画師の位を与えられ大阪を代表する狩野派の画人として晩年まで活躍しました。 大川春川、大川春耕斎、江阿弥等の数多くの門人を育てました。 |