大阪天満宮

大阪天満宮について

てんじんさん

大阪天満宮

菅原道真公の生涯

菅原道真公は、承和12年(845年)に菅原是善(すがはらこれよし)34歳の子として誕生されました。(6月25日と伝えられるが定かではない。) 生誕の地は、京都市上京区烏丸下立売の菅原院天満宮の社地とされていますが正確にはわかっておりません。 菅原家は、天穂日命(あめのほひのみこと) を祖とする土師氏(はじし)であり、有名な14世の野見宿禰(のみのすくね)の子孫でもあります。 祖父の清公(きよきみ)、父是善(これよし)ともに学者の最高位である文章博士(もんじょうはかせ)に任命されましたが、道真公も33歳という若さで文章博士に任命されました。 道真の幼名は、「阿呼(あこ)」といい、幼少の頃はひ弱であったという事ですが、5才の時、庭に咲く紅梅を見てその花びらで自分の頬を飾りたいと、『美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある』と歌い、11歳(斉衡2年/855年)には、初めて次のような漢詩を詠んでいます。

月の輝きは晴れたる雪の如し
梅の花は照れる星に似たり
憐れむべし金鏡転じ
庭上に玉房香れるを

母は、神代以来の名家大伴(おおとも)氏の出ですが、淳和天皇の御代に、大伴氏は伴と改姓しました。また、大伴は元々武将の家柄ですが、旅人、家持、坂上大、嬢等の有名な歌人も輩出しています。

貞観 元年(859年) 貞観 元年(859年)
貞観 4年(862年) 文章生となる。(定員20名)
貞観 9年(867年) 文章得業生(文章生の中より才学抜群の者2名)
貞観12年(870年) 方略試に合格。(中上の成績で及第)
貞観19年(877年) 式部少輔に任ぜられる。同年改元(元慶元年)文章博士を兼務。
元慶 4年(880年) 父・是善没。
仁和 2年(886年) 讃岐守となり任地に着く。道真42才
寛平 2年(890年) 讃岐守の任を終え帰京。その後、病気療養に努める。
寛平 4年(892年) 『類聚国史』を編纂。
寛平 6年(894年) 遣唐使に任命させしが、自ら遣唐使の停止を奏上。
寛平 9年(897年) 藤原時平、大納言・左大将。道真、権大納言・右大将。
昌泰 3年(900年) 重陽の宴に侍して「秋思」の題の勅命に応え詠んだ詩。
じょうしょう年を渡りて幾たびか楽しび思へる
今宵は物に触れて自然(おのずから)らに悲しむ
声寒ゆる絡緯は風の吹くところ
葉の落ちる梧桐は雨の打つ時
君は春秋に富み臣は漸くに老いたり
恩は涯岸無くして報いむことはなほし遲し
知らずこの意何れにか安慰せむ
酒を飲み琴を聴き又詩を詠ぜむ
昌泰 4年(901年) 正月25日。突如として大宰権帥に左遷されることになる。
延喜 元年(901年) 2月1日京を発ちて太宰府に下向す。 道真が、自邸を去るときに詠んだ詩。 「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」 三代勅撰和歌集の一つ『拾遺集』によまれている。 『大鏡』では、第五句を「春な忘れそ」とある。 「九月十日」(仲秋の日配所で詠んだ漢詩)

去にし年の今夜 清涼に侍りき
秋の思ひの詩編 独り腸を断つ
恩賜の御衣は今此に在り
捧持ちて日毎に余香を拝す

延喜 3年(903年) 2月25日薨去。

菅原道真公とのゆかり

天神様と牛

天神様と牛の歴史的な関係は古くから深い物があります。道真公は、承和12年 (845)に誕生されましたが、この年は乙丑(きのとうし)でありました。また、延喜3年にお亡くなりになりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言で、その場所を墓所と定めたのです。その場所が、都府楼の北東(丑寅)の方であったなどの多くの牛との関わりや伝承があり、天神信仰には牛がつきものとなり、「神のみつかわしめ」としてのつながりを持つようになりました。

梅鉢紋

梅鉢の種類は、幾つかあります。梅紋には、梅花紋と梅鉢紋と二種類あります。多くは、梅鉢紋である。剣梅鉢・大聖寺梅鉢・丁字梅鉢とかの名称も生まれました。剣梅鉢は、一名加賀梅鉢とも言われる。梅花紋は、梅の花をそのまま図案化した物で、梅鉢よりずいぶんリアルです。しかし、道真が、梅鉢を紋章にした事実はありません。種類としては、六曜星・星梅鉢・線引梅鉢・加賀梅鉢・梅鉢など。

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